昭和46年07月09日 朝の御理解



 御神訓一、「神は声もなし形も見えず、疑わば限りなし。恐るべし疑いを去れよ。」

 信心は疑いを去ること。神を信ずるという、それが信心。信ずる心とある。疑いを去ること。ただ、疑いを去る事。疑いがなくなっていくという事。そこんところに焦点をおいて、信心させて頂けば、恐るべし、疑いを去れよとおっしゃるが、恐るべし、大みかげが受けられるという事になるわけですね。恐るべし、凄まじいまでの、本当に恐ろしいごとあるおかげと申しますね。
 そういう恐ろしいごとあるおかげをね、現わして頂きたい。その為には、先ず信ずる事。信じなさい信じなさいと言うても、なかなか信じられませんから、信じられる稽古をすること。如何に真剣に、稽古をさせてもらうかと。私どもも、いろいろに稽古を致しましたですね。そして成程、生命は神様が預かっておられるのであり、神様が、息の差入れに至るまで自由自在になさるものだという様なことが、段々分かってきた。その為には、やはり、どんな修行をしても良いわけである。
 私は中島の上滝さんが粟粒結核で医者はもう時間の問題と言うて帰られた。その病人がもう助からせて頂くと言うなら、神様が人間の体は作って下さったんだと言う事を、話には聞いておりますけれど、本当に神様が作って下さったんなら神様が修繕して下さると言う事、治して下さる事が出来なさる筈だと。絶対なものとしてですですからその印を愈々見て貰いたいと思うたから私はその為に様々な修行をさせて貰いました。
 これが助かるなら、矢張り神様のおかげと言わなきゃおられん。いやおかげと言うより、神様がこの命はこの体は、自由自在になさるんだという事が分かった。それから次々と色々な事柄に出合いまして、事柄の上においてもそういう事があった。神様のおかげを頂かなければ立ち行かんという事が分かってきた。神様を信ずる力が出来て来た。それこそ恐るべし恐るべしというおかげを頂いた。
 私は合楽が今日のおかげを頂いてきておると言う事は、それこそ恐るべしという程しのおかげだと思いますね。それは私が神様を信ずる度合いというものが、この程度であると言う事なんです。まだまだ、この事に限っては、限りなく修行させて頂かなきゃなりません。だから信ずると言う事がです、おかげになるのです。だから信ずる稽古を本気でさせてもらわなければいけません。
 そういう意味でですね、神様を信ずる稽古をさせてもらう材料と言うか、それは手近なところにあります。色々自分で工夫しさえすれば、どんなにでも出来ます。例えて言うならば、本気で願って見える。例えば自動車で見えるならば、どうぞ合楽に参りますまで、それがね、本当にその時間に着かなければならん。為にはどうぞ途中で、ゴーストップなどがあったんでは出来ませんから。
 ずうっと青青青で行けれるような願いをしておかにゃいけん。そしてね例えば五つあった内に、三つだけは青青で来たけれども、二つだけが赤だったという場合ですね、そこはまだ、私の信が足りんのだというふうに頂いて行きゃいいのです。例えば今日お金が要る。どうしても一万円なからにゃ、今日は立ち行きません。一生懸命お願いさせて頂いた。神様はおかげ下さる。神様はおかげ下さる。
 心の中に言い続けなきゃいけません。例えば、言葉に唱えにゃいけません。言い続ける、神様はおかげ下さる。そして例えば八千円しか集まらなかったと致しましょうか。神様はおかげ下さらじゃった等と思わずに、その二千円だけは、自分の信が欠けておったんだと思うて、新たな修行でもさせて頂くといったような生き方ですから、信ずる稽古ということは、いくらでも転がっているですね。
 神様を信ずる稽古。そこに何というでしょうか、百発百中と言う様なおかげを頂かれるようになるのです。自分の信が足らずして、おかげ下さらんからと。神様もいい加減なもんだと言う風に思うたりしたら、もう信は崩れてしまいます。神様はおかげ下さる。絶対なもの。それを信じれるという事。それで、二つ欠けたならば、二つだけ信が欠けておったんだと悟らして頂くような生き方。
 そういう生き方をです、色々稽古させて頂いておりますと、いわゆる教えが本気で心の中に入って参りますね。どうでもその例えて言うならば、十なら十のものを頂かなければならんなら、十のものを頂く。神様を絶対のところに置くのです。ちょうどそれは、弓矢の稽古をするとに的がある。その的にめがけて弓を射る。的だけは絶対なものですから。それが中心を射抜くというなら、輪がこう書いてありましょう。
 それが輪に当たらずに、外のところに当たる。矢が外れてしまう。これは自分の腕の、まずさを知る以外にありません。それが段々稽古していく内にです、中心を射抜くことが出来、しかも百発百中、射抜く事が出来ると言う様な、技が身に付いてくるように、信心も同じこと。だからここでですね、疑えば限りのない中にです。疑わずその疑うという事が、神を疑うことが恐るべしと仰るのだから、神を信じたら、又恐るべしと言う様なおかげが受けられるという事を分かって頂きたい。
 そして自分の生活の上に、それを本当に頂いて、現わして頂きたいという風に、私は思います。そこでで、又の御神訓、「疑いを放れて広き真の大道を開き見よ。わが身は神徳の中に生かされてあり。」ここんところは、説明を聞きますと大体分かりますね。神徳の中に生かされてあるという事は、理屈の上ではすぐ分かるけれども、実感として中々分からないところ。その証拠には有難いものが伴のうて来ない。
 だから疑いを放れて広き真の大道と、いわゆる真の大道と言う事ですね。疑いを放れなければ、真の大道は分からない。そこでですその真の大道を分からせて頂くために、どういう修行をさせてもらうか。次の御神訓の中にね、「我情我欲を放れて真の道を知れよ。」とある。だからその真の大道とかね、真の道というのは、もう実感して真の大道だという事が分かると言うことはね、我情我欲を捨てる稽古をしっかりせにゃいけません。我情と言う事は自分の思い。どうありたいこうありたいとこう思う。
 だからそれを、例えば、ここでは、親先生任せと言った様な言葉を使いますね。自分の思いを捨てて親先生に任せる。神様に任せる。それは、実際の問題の上に、皆さんは任せる事をなさるでしょう。御神意を伺うて、右と仰れば右という事になることは、これは自分の我情を捨てておることです。次には、我欲を捨てる稽古をせにゃいけん。欲のない者はありません。だから欲を捨てよとは仰いません。
 我欲を捨てよと仰る。お互い、なかなか我欲が強い。その我欲の為に苦労する。我欲の為に、人を陥れる様なことは平気。我欲の為に、自分自身が苦しい。いわゆる我情我欲を放れると言う事。先日から久留米の石井さんが、御夢の中に頂かれたという、壮年部会の夜に発表しておられましたが。物事すべての事をです、御事柄として謹み畏んで受けて行けばおかげは、どんでん返しのおかげと頂かれた。
 御夢の中で親先生がそげん言わっしゃった。本当にそうどころじゃない。そうだと喜代司さんはそれを実感した。まぁあんなおかげを頂いておる訳です。物事すべての事をです。神様の御事柄としてしかもそれがね、謹み畏んで受けると言うこと。私はねここんところを、謹み畏んで受けてさえ行けば、よかたいち言うたら、易かごとあるばってん。実際は謹み畏んで、受けると言うことは難しいのです。
 さぁそこでです、我情我欲を取る稽古をしなければ、謹みかしこみは受けられん。自分は右が良かと思うとるとに、左が良かと思いよるとに。此処に金の一万円も出さにゃんちゃ惜しい事と言うて、我情我欲が出てくるから、謹み畏んで受けられん、我情我欲があるから。だから、どんでん返しのおかげを受けられると言うのもです、やはり我情我欲を放れてみて、初めてどんでん返しのおかげを頂いて、それこそ赤が白になるようなおかげを頂いて初めて、神様を信ずる力は、愈々強くなってくるわけです。
 私は、ここでお取次をさせて頂くのに、あんたの病気は心配することはいらん、良うなると私が、信じて言うけれども。先生はあげん言いなさるけれども、と言うてから帰るもんじゃけん、ちゃんと、それだけ方しか、なかごとなってくる。先日も、高芝さんのお知り合いの方が、もう医者から見放された。だから病院を他に代わってくれと言うごとなった。そんところを御導きを頂いて、毎日参ってくる。
 晩にここへ泊まって、朝の御祈念頂いて帰る。どうですかまぁ何日間か。糖尿病もあるです。糖尿病も痩せ細っていく糖尿病です。それで物凄くよく食べるもんですから、私と一緒に朝お食事を頂く。私と一緒に頂くという事が素晴らしい事だから、私が食べる物は何でも頂けると。私も糖尿病。甘いもの食べれば、辛いものも食べる。そして矢張り腹いっぱい御飯も頂く。
 おかげを頂きまして二、三日、三、四日しよりましたら、自分の商売の事をお願いするごとなった。手形が落てません。今日の売れ行きの事をと言うてお願いするごとなった。おかげ頂いてる。そしたら親戚に医者があるか何かち言うちから、こげな病人ばそげな事したら大事の出来るち言うてから、参られんごとなった。参られんごとなったら、そのまま昨日、電話のかかってきましたが。
 もうそれこそ、死ぬるのを待つばっかりと医者が言うたち。もう意識不明になってしまった。さあそれから慌てて、また、向うの店員さんがお願いに来る、高芝さんがお願いに来る始末。私も知っとるです、そげんひどい病人であるち言う事は。それを私が、医者にかからずに、私と一緒にここで同じ物ば頂いて、おかげ頂けって、とても言える事ではないて、神様を信じとらなければ。
 そしたら二三日はそげな風でお食事もどんどん頂くし、それこそ病気の事は忘れるようにして、商売の事をお届けするごとなった。ところが具合が悪いと言うて、鹿児島からですが、鹿児島から兄弟がやってきて、その兄弟がお医者さんだそうですが、それからまぁ無理矢理に、病院に連れて行ったというわけでしょう。そして病院で意識不明になった。大体は、そげんひどかったっじゃん、もうここに来る時から。
 そのかわり、私が言う事を聞け。開襟シャツなど着とったけど、そげなっじゃできん。明日から背広ば着てちゃんとして来んのと、私が言うた。お食事も私と一緒に頂く。御用も繁雄さんと一緒に、繁雄さんのされる御用を、一生懸命、二人でしよる。それが昨日は、どういう事になるかと言うと、もう意識不明、もう死ぬのを待つばっかりと医者が言うたち。それから、またあただに、高芝さんところの店員がお願いに来ると言う事になった訳です。そしたら昨日、また、晩に電話が掛かってきた。
 いや店員が御礼に出てきた。おかげで意識が出たと。私は助かると信じとる、神様に一心にすがるなら。けれども、先生はそげん言いなさるばってんち言うちから、ちゃんと、そがしこ差引いてしまう。そこでお互いが、ほんなら、神様を信ずると言う事より、ここでは親先生を信ずるという事をです、信ずる稽古を本気でさせて頂く為にです、私と同じものが、段々出来てくる稽古をせにゃいかん。
 私が我情我欲がないとは言わん。けれども、私は誰よりも我情我欲がないと思うから、我が身は神徳の中に生かされてあるという事を、いつも実感しておる。真の大道であることをいつも実感しておる。ですから、私と同じに一つ我情我欲を放していく稽古をせよという事なんです。自分の思いを捨てよと。我欲な事は言うな。それこそ自分の事には、十円の金も割って使うようにするけれども。
 こと神様の事やら、神様ごとの場合なんかは、私がほんならあるしこ送っとって下さいと言うことが言えれる。これは我欲がないからです。だからその我情我欲を放れなければ真の道は分わからん。「疑いを去りて信心してみよ。みかげはわが心にあり。」先程から申しましたね。神様は絶対なものとして、そして例えば自動車で青なら青のシグナルがずーっと続いていく。そこにね神様を信ずる力が出来てくる。
 ところが五つのところ二つだけは赤のシグナルであった。これはまだ自分の願いが足りなかった、信が足りなかったとして行かなきゃいけん。又は、そこんにきがです、赤でも良かりゃ青でも良か、そげん五分十分早いか遅いがどうちいう事はなかという様な時に、こういう願いをしちゃなりませんね。そうでしょうが。車で久留米まで行かなきゃならんとに、三十分間で、どうでも行かなきゃならん。
 そんなら一心に神様に願う。そしてどうぞ、それこそ、一直線に走っていけるようなおかげを願うがいい。それでも尚且つ、一つ赤がついておった。二つついておったなら、一心に願ってそれだから、これは自分の信が足りない、こうしなけりゃいけない、稽古です。だから、そういう稽古をさせて頂いとる内に、どうして、さっき、的の話をしましたが、自分のが、いつも的を外れてばっかりおるんだと言う所にです。
 どうしてじゃろうか、どうしてじゃろうかと思う時に、教えが本気で、どうしてじゃろうかと思うて、どうしたならばおかげが受けられるじゃろうかと思うから、教えを真剣に頂く事になる。あぁ成程、これじゃおかげが頂けん筈という事が分かってきて、信心も熱心になるなら、改まることにも研くことにも、本気になるという事になる訳です。そこで我情も薄れて行きゃ、我欲も段々薄れていって。
 我情我欲のない、結構な生活が出来る。我情我欲をはずしたら、人間などうなるじゃろうかと思う、こりゃ絶対にない。それこそ、我身は神徳の中に生かされてあるなと。それこそ、昨日でしたかね、一昨日ですか頂きました。黙って喜んでおれば、黙って神様がおかげを下さるというのである。そういうところにまでなって来る訳です。我情のあると言うことは、本当にきつい事ですよ。
 あぁしてくれ、あぁして欲しい、あぁあると良かばってんと、思うだけでもきつかです。けどもなら、私どもは、我情でなくて、ただの情の場合がある。例えば今日金が一万円要る。あぁもう言いきらん要らんち言うとじゃないもん。今日、しゃっち一万円が要るち言うならね、その一万円を願うということは、これは我情じゃないです。どうでも頂かじゃならんとじゃ。これは我情じゃない、我欲じゃないもん。
 どうでも要るのだから。それでいて尚且つ、八千円しか頂けなかったならば、後の二千円は、まだまだ信が足りんのだ、受けものが悪いのだと悟らせて頂いて。そのそれなら、どこんにきが受けものが悪いじゃろうかと教えを頂いて、本気になって、我情を外していく、我欲を外していくことにならなければならない。我情我欲が、はなれて行くに従って、成程真の大道とは、こういうものであろうか。
 御神徳の中とは、こういうものであろうかと、神様の懐の中に抱き抱えられておる安らぎ、喜び、安心。そういうおかげが頂いていけれる信心生活がそこにある。神は声もなし形も見えず。成程、信心薄い者、いや信心のない者が、神も仏もあるものかと言や、成程そう形も見えんのですから、姿も見えんのですから、声も聞こえんのですから。けれども、私どもはおかげを頂かなければならん。
 為には先ず疑いを放れてと仰るし。疑いを放させて頂く稽古を本気でさせて頂くというところから、神様が信じれれる。そこにはねそれこそ凄まじいまでの恐るべしという言葉を以てしなければおれない程しの、とにかく神様のおかげちゃ恐ろしかというようなおかげにもなってくる事が分かる。そういうおかげの事実は、合楽を見れば分かる様になっとる。私が頂いとるおかげを見れば分かるのである。でしょうが。
 喜代司さんが頂かれる。謹み畏んで、すべての事を頂くという事も、我情我欲がないから謹み畏んで頂かれるとですよ。我情我欲があってご覧なさい、右がよいと思うとるとに、左が来たら、それは、合掌して受けられん。さあ一万円出すことが出来たばってん、我欲があるなら、惜しうしてこたえんけん、出そうごとなか。これじゃ謹み畏んで受けられんでしょうが。謹み畏んで受けるところにです、どんでん返しのおかげが受けられるとこう言う。上が下になり、下が上になるようなおかげになってくる。
 赤が白になる様なおかげが受けられる。そういうおかげが受けられるのが、お道の信心ですよ。昨日一昨日でしたかね、先一昨日でしたか。村内の方が、二三人見えてから。ここの下の方へ水がかからんとこう言う。だから、家の、ここの石垣のせいだと言うわけです。昼頃でしたから、今日は企画の委員会があるから、ほんなら、その方達に話して下さいと言うて、家のものが言ったらしい。
 それで晩に見えられた、三人連れで見えられた。私はここに努めておったから会いませんでしたけど、秋永先生と久富正義先生が面接したのでしょう。そして、どげん考えたっちゃ理不尽だと。そげな事あるはずがなかと、まあ突っぱねてもよい様なものだったけれどもですね、あなた方が困っておられるなら、家も沢山、井戸も幾つもあることだから、井戸を出してあげようけれども、今丁度ポンプが崩れとる。
 そこで正義先生が、家から大きなポンプを持ってきて、ほんなら明日、半日なら半日、水をどんどん出してあげましょうと。それこそ、謹み畏んでまではいかんじゃったろうばってん、有難く頂いたわけなんです、こっちが。そげなこと知るもんのと言うたっちゃ、いうなら、よか訳なんです。ところが明くる日、そげな事のお届けがありました。御祈念の後に秋永先生から。
 そして御祈念が終わってから、あげん百姓の方達が言いよんさったが、どげんなっとるちゃろうかと思うて、そこの裏の溝を見たら、水がどんどん流れよるげな。それこそ、秋永先生がびっくりしてからですね、どこからどげな風にして、こげん流れてきよるとじゃろうか。それから、内々の百姓さんのところへ行ってから呼んできた。こげんして、水が流れよる。いやもう水が流れてきて、田にかかりさえすりゃ、いっちょん問題はなかっでございますけんでと言うて終わったということ。
 農家の人達は、それをおかげとも何とも思いなされんじゃったかもしれんけれども、それこそ秋永先生だけは、もう兎に角、びっくりしたわけですね。それこそ、どんでん返しのおかげを受けとる。もうそういう例は、ここでは幾らもあるでしょうが。まるきり嘘のような話。萩の山口つぁんなんかは、井戸は金気で、どんこん使われん。それでもう一つ井戸を掘らせて頂くと言うお願いに来た。
 そげなこつすると、掘るよりか神様にお願いせんのち言うちから、こげな事どもお願いしてよかでしょうかち。それこそ信じなさいち言うた。おかげで十日もせんうちに、立派な水になった。今現在それを使っている。私が信ずるところと、受けて帰るとが信ずるところとが、一つになった時に、そういうどんでん返しのおかげが受けられる。成程天地が自由になる様なおかげが受けられる。
 だから、そういうおかげを受けられるという事を、私どもは確信させて頂くための信心をする、修行をするのだ。的というものは絶対のもの、だから、こちらの狙い方が足らんのだ。まだ引き絞り方が足りんのだ。まだ自分の信が足りんのだから、一万円お願いしたつに、八千円しか寄らじゃったと言うことに思いをおいてです。お願いしとったばってんおかげ頂ききらじゃったと言わずにです、あとの二つの足らないところは、私の信の不足として、その信を頂いていくところの稽古をさせて頂くためにです。
 疑いを去れ去れと言うても、中々疑いが去られません。そこで私共が我情の方を取る稽古を本気でさせて貰う。自分の思いを捨てると言う事に一生懸命になる。我欲を捨てると言う事に一生懸命になる。本気で本心の玉を磨く事に、限りなく美しゅうならせて頂くことに、精進すると言うか、そこから不思議に我情が取れてくる。神様のおかげを頂かなければ出来る事ではないのだからと分かってくると、自分の思いが捨てられる。
 神様のおかげを頂かなければ出来る事じゃないからと思うから、自分の元に我執しない。こと是が有難い事にならそれこそ、欲を抜いてさっさと御用も出来るという事になる。そこから言わば喜代司さんが頂かれる、謹み畏んで受けられる事の事態を。そこにはどんでん返しのおかげが受けられる。今日の御理解で言うと「疑えば限りなし恐るべし疑いを去れよ」と仰るが、ほんなら疑いを去って信じた所には、恐るべしどんでん返しのおかげも頂ける様な、おかげが頂かれるという事になる。恐ろしいまでのおかげが頂けると言う事になるのですよ。
   どうぞ。